2005_01_ブッシュ再選を支えた保守多数派四〇年の系譜(中央公論)

『中央公論 2005/01』

ブッシュ再選を支えた

保守多数派四〇年の系譜

"アメリカの分裂"が叫ばれながら、結果はブッシュ共和党の完勝。

その背後には六〇年代に始まった「南部戦略」の存在があった。

松尾文夫/ジャーナリスト

 ブッシュ大統領は、なぜ再選されたのか。イラク戦争開始の理由として全世界に公言した大量破壊兵器は見つからず、占領後の治安維持もままならず、アメリカ兵の戦死者が一〇〇〇人の大台を超える「逆風」にもかかわらず、なぜアメリカ国民の信任を得ることができたのか……。この問いに、きちんと答えることが必要である。特に小泉首相がブッシュ大統領と前例のない個人的信頼関係を持ち、同盟国として自衛隊までイラクに派遣している日本にとって、この作業は避けて通れない。

 私がアメリカ大統領選挙をジャーナリストとしてウォッチするのは、ケネディとニクソンが史上初のテレビ討論で対決した、一九六〇年の選挙戦を、共同通信本社外信部の新米記者として担当して以来、今回で一二回目。「アメリカという国」を追いかけたくて外信部記者を志した私にとって、四年に一度、うるう年とオリンピックとともにやってくる大統領選挙は、どんなポストと任地にいても自らのアメリカ分析の座標軸を鍛え直してくれる大切な学習の場であった。以下、四四年間の学習のなかから、「ブッシュ再選」のルーツを探る。

 ブッシュ完勝の現実

 とにかく今度の選挙結果は、ブッシュ大統領の完勝であった。この事実はクールに受け止めておかねばならない。ケリー候補の敗北宣言こそ翌朝に持ち越されたものの、まさに「マグニフィシェント・ビクトリー(堂々たる勝利)」(開票日深夜のCNNの解説者のことば)だった。

 大統領選挙人数で三四票差、全国一般投票では四年前を約九〇〇万票も上回って史上最高の得票数を記録し、ケリー候補に約三五〇万票の差、因縁のフロリダ州でも三六万票の差をつけ、四年前の「少数派大統領」の汚名を十分にそそぐ内容だった。全国一般投票の得票率でも五一%と過半数を超えたのは、一九八八年の父ブッシュ大統領の五三・九%以来。しかも投票率が約六〇%と、ベトナム戦争下でニクソン、ハンフリーが争った一九六八年の六〇・九%以来の高水準を記録するなかでの、立派な数字といえる。

 同時に行われた上下両院、州知事選挙でも共和党が、がっちり多数派の地位をキープ。特に上院では四議席も増えて五五議席と安定多数。下院支配は一二年の連続となった。ブッシュ大統領が十一月四日の記者会見で、「今度の選挙戦で、私は政治的資本を手にした。私はこれを使うつもりだ。これが私のスタイルだ」と胸をはったのも当然といえる結果だった。「われわれは大量破壊兵器を使用した歴史を持つ恐怖のスポンサー国家を除去した。サダム・フセインが牢獄につながれていることで、全世界はより幸せになった。−この戦いに必要なのは忍耐である。勝利を収めるまでには多くの山坂があり、挫折がある」(二〇〇四年六月二日、空軍士官学校卒業式での演説)つまり、イラク戦争について、こうした説明を一貫して繰り返していたブッシュ大統領を、アメリカ国民の多数が受け入れたわけである。大統領は、またイラクに民主主義を植えつけるための戦いは、アメリカにとって第二次世界大戦、東西冷戦と同列の歴史的義務だ、と意義づけ、かなりの頻度で、これは全能の神がアメリカに与えた責任であるとも強調した。そしてアメリカ軍への攻撃がやまない現在の苦難を東西冷戦初期のベルリン大空輸やギリシア内戦の試練にたとえ、やがてやってくる成功の前例として、大戦後の日�{とドイツにおける民主主義の定着を挙げた。こうしたブッシュ・テーゼが信任され、その「中央突破」作戦が成功したわけである。

 「南部戦略」というルーツ

 なぜなのか。

 開票の終了時、フロリダから南部、西南部、中西部の南半分を経てネバダまで、アメリカ大陸の中心部とアラスカを赤色で埋めつくしたブッシュ獲得州三一州。そのへりにはりつくように、ニューヨーク、マサチューセッツ、イリノイ、カリフ

ォルニア、そしてハワイと大西洋岸、五大湖岸、太平洋岸に細く連なる青色のケリー獲得州─。CNNの画面が映しだす「ブッシュのアメリカ」の新しい政治地図をながめながら、私は「南部戦略」ということ ばを思い出した。四〇年前の一九六四年から六九年までの五年間、私が初めてアメリカ特派員を務めた時、実際にその展開を目撃した政治戦略のことである。

 当時のジョンソン民主党政権が、ケネディー時代から引き継いだベトナム軍事介入を拡大してドロ沼に入り込み、反戦運動の高まりのなかで迎えた一九六八年の大統領選挙戦。八年前にケネディーに惜敗したニクソンは、保守化した中産階級のエゴイズムをとり込んだ。「南部戦略」で雪辱を果たし、ホワイトハウス入りした。ニクソンは、インドシナ全域への戦火の拡大と既にしのびより始めていたウォーターゲート事件の影の中の、四年後の七二年大統領選挙でも、同じ「南部戦略」によって、反戦をスローガンにした民主党のマクガバンに圧勝、再選を果たす。

 三十五歳のワシントン特派員として、一九六八年のドラマを雪のニューハンプシャー州予備選挙を皮切りに、終戦取材した私にとって、今度のイラク戦争下でのブッシュ再選は、この「南部戦略」にまでさかのぼってとらえるのが一番わかりやすい、と思える。今回、エバンゲリカル・クリスチャン(福音派キリスト教徒)と称される保守的な宗教票の囲い込みに成功して、ブッシュ再選実現の立役者となったブッシュ大統領の政治顧問、カール・ローブ氏の戦略は、間違いなくその延長線上でとらえられると思うからである。

 ケリー候補がホワイトハウス奪回を果たせず、上下両院・知事選挙でも完敗した民主党側の混迷も、同じように三六年前の「南部戦略」に敗北した傷跡を依然として閉じていないというアングルでとらえておくべきだと思う。六八年のニクソンがベトナム情勢のドロ沼化を「南部戦略」で政治的踏み台として活かしきったのに対し、今回のケリー民主党は、これを果たせなかったわけだからである。さかのぼってその実像を掌握しておくことが必要である。

 「法と秩序」というスローガン

「南部戦略」は、最初、読んで字のごとく、夏のマイアミ党大会でニクソン指名賛成の代議員を南部諸州から確保するため、ミッチェル選挙運動事務長(後の大統領顧問、司法長官)が民主党から転向したばかりの南部共和党の実力者、サーモンド上院議員との間で行った取引から始まった。ニクソン支持の代償として?当時、南部諸州で強行されようとしていたバス輸送による強制的な人種共学の実施に反対する、?副大統領候補には南部が支持できる人物を指名する、?南部繊維産業保護のため日本に輸出自主規制を申し入れる—といった政策の実行を約束したもので、ニクソンはこの内容を忠実に守った。ニクソン政権下で、日本の繊維輸出自主規制が沖縄施政権返還の条件となったことは、歴史の事実である。

 しかし、このサーモンド議員との一見、古典的な取引は、南部のみならず、アメリカ全土で進行していた政治インフラの地殻変動を先取りしていた。南北戦争以前の奴隷州時代から一貫して民主党の地盤であった南部諸州は、その経済インフラが、従来の綿作や繊維産業から、新しく進出してきた軍事・宇宙産業などへと切り替わりつつあり、新たな中産階級が全国から流れ込んでいた現実にサーモンド議員らは、目をつけていた。この南部新人口を共和党側に取り込み、長年の民主党支配を覆すチャンスととらえたのである。民主党政権が力を入れていた黒人差別の撤廃、地位向上に対する新しい流入中産階級の反発が、そのつけ込む突破口であった。

 ニクソン陣営は、選挙戦本番を迎え、サーモンド議員から学んだ、その「南部戦略」を大きく全国的な戦略として飛躍させる。南部の流入中産階級が示した保守化傾向、すなわち、黒人の地位向上、リベラルな経済・社会政策、そして学生の過激な反戦運動やカウンター・カルチャー運動、黒人暴動……と民主党政権下で進行する出来事に強く反発する階層を取り込もうというシナリオであった。ニューディール以来、民主党を支えてきた有権者層に対する壮大で、野心的な攻撃であった。

 二十七歳の若さながら、ミッチェルの特別補佐官として、このサーモンド議員との取引に始まる「南部戦略」の構築と展開に直接かかわった、ケビン・P・フィリップス氏は、ニクソン政権発足後の一九六九年十一月に発表した著書、『ジ・エマージング・リパブリカン・マジョリティー(多数派としての共和党の登場)』のなかで、この地殻変動について、次のように分析した。「ニューディールのリベラルな諸政策の受益者として、長年、民主党の支持基盤となってきた白人中産階級は、『郊外族』として保守化したのみならず、第二次世界大戦の技術革新のおかげで全米に拡がった新たな産業エネルギーとなって全国に散り、共和党側の政治基盤を提供してくれることになった。特に産軍複合体が羽をのばしたフロリダからテキサス、アリゾナ、カリフォルニアへ連なるサンベルト地帯では、共和党が政治的多数派としての地位を民主党から奪うことが可能であり、ニューディール以来のアメリカの政治インフラそのものを替えることができる。…この共和党に鞍替えする中産階級のなかには、イタリア、アイルランド、東欧からの移民の二代目も含まれている。したがって共和党がプロテスタントだけの党であった時代は去り、カトリックの移民も共和党に移っている。…」「南部戦略」の目標は、はっきり定められていた。

 このニクソン陣営の戦略にまるで迎合するかのように、民主党側の自滅現象が始まった。アメリカ社会を縦横の亀裂が走った。

 六八年年頭のテト攻勢で、「ベトナムでの勝利は間近だ」と言い続けていたジョンソン大統領がつまずく。予備選挙皮切りのニューハンプシャー州で無名の反戦候補マッカーシーに事実上の敗北を喫し、あっという間に再立候補辞退に追い込まれる。ジョンソンはようやくベトナムとのパリ和平会談に応じ、北爆部分停止に踏み切る。しかし、戦争終結の展望は生まれず、戦死者が増え続けるなかで、拡大し、過激化する反戦デモ。「偉大な社会」計画のもとでの生活補助資金がカットされて都市の黒人暴動が恒常化。黒人運動が過激化するなかで、キング師が暗殺される。そしてまたさらに大きな規模の黒人暴動が全国の大都市を覆い、催涙弾が飛び交う。続いてジョンソンからの禅譲を期待して反戦運動の波に乗り遅れたロバート・ケネディーが暗殺される。またまた繰り返される葬式のテレビ中継。そして、とどめはシカゴの民主党全国大会での乱闘…。

 ニクソンはひたすら「法と秩序」の回復による良きアメリカの復活を呼びかけるだけでよかった。「歴史の評価」を意識して、なかなか和平への舵を切らないジョンソンのもとで、民主党のハンフリー候補がベトナム和平発言で右往左往するのを横目にみながら、ニクソンはベトナム政策については何一つ具体的な提案を行わなかった。ただただ「法と秩序」のスローガンを繰り返した。

 そして、このスローガンは、最大限の効果を上げた。標的とした中産階級は、デモや暴動や暗殺や葬式に疲れ果て、ますます保守的になり、狙い通りニクソンのふところに飛び込んできた。ニクソンが開票日の夜に心配したのは、黒人差別継続を旗印に南部の六州をおさえた第三党のウォーレスの票によって、大統領選挙の勝負がつかず、「下院決定」に持ち込まれることだけだった。

 この「南部戦略」に応えた保守化した中産階級は、のちにニクソンによって、「グレート・サイレント・マジョリティー(偉大な声なき声の多数派)」と呼ばれることになる。そして彼らは、一九七二年には、ウォーレス票も完全に吸収してニクソン再選を支えたのみならず、ウォーターゲート事件とベトナム敗北のショックのなかで生まれ、「党籍不明」といわれたカーターの四年間のあと、レーガン二期八年、ブッシュ父一期四年、合計一二年間の共和党時代を生み落とす。そして「レーガン亜流の民主党政権」といわれたクリントンの二期八年を経て、今回のブッシュ再選、といまや政治的多数派の地位に座る。

 明白な分水嶺となったこの一九六八年から数えて、ブッシュ第二期政権が終わる二〇〇八年までが四〇年。フランクリン・ルーズベルト当選の一九三二年から第二次世界大戦をはさんで一九六八年までの三六年間を大きく「ニューディールの影響力がホワイトハウスに残っていた時代」としてとらえると、すでに「多数派としての共和党」の影響力の時代がそれを超える。この「南部戦略」が生み出した「アメリカという国」の政治の大きなうねりは、理解しておかなければならない。

 同性婚問題というテコ

 カール・ローブ大統領政治顧問が仕切ったブッシュ完勝が「南部戦略」の完結編だと思うもう一つの理由がある。それは、今度の「多数派」誕生がニクソン時代のそれと同じく、アメリカ社会の亀裂の存在を前提とし、その流れに棹さしてのみ達成が可能であったという事実である。

 今回の出口調査では、「何が一番重要な争点だと思って投票したか」との質問に対し、「道徳的価値の問題」という答えが一番多く二二%、次が経済で二〇%、第三位がテロとの戦いで一九%、第四位がイラク戦争で一五%……という数字が出た。再選が決まった次の日曜日、NBCテレビの看板番組「ミート・ザ・プレス」に登場したローブ氏は、「この結果をどう読むか」との問いに、こう答えていた。「アメリカ国民は、テレビや映画や新聞で接するわれわれの文化の下劣な部分に懸念をいだいている。アメリカという国の価値、その将来がどうなるのかを心配しているのだと思う」。

 ローブ氏は、このあと保守系のフォックス・テレビにも出演、同じ質問に「われわれの社会の下劣な部分、傷つきやすい人々や弱者、若者たちに対して敵対的な文化の存在を懸念する信仰厚い人々にとっては、ブッシュ大統領は、価値観を共有する人物だと受けとめられたに違いない」と語った。そして「今度の選挙戦では、価値観の問題がかつてなく重要な争点となった。これまでの選挙では道徳問題、または価値観の問題が最重要だと答えていた人は大体一六%だったが、今回は二二%にはね上がった。これは極めて大きな変化だ」と胸を張っていた。

 ローブ氏がアメリカ社会の「下劣な部分」をやり玉に上げ、それへの反発を大統領支持の理由として挙げていることを知って、私は「南部戦略」との連続性を確認した。一九六八年のニクソン当選と七二年の再選は、まさにこうした社会的亀裂をテコに達成されて

いたからである。長髪の学生が反戦デモでベトコンの旗を振って警官隊と衝突し、星条旗を踏みにじり、徴兵票を焼き、マリファナを吸い、ポルノ解禁、ゲイ容認を迫る「カウンター・カルチャー」と総称される運動が活発化すればするほど、愛国心に富み、道徳心、宗教心の篤い中産階級は、リベラル派・が主導権を握る民主党ではなくて、共和党のふところにかけ込んでくる−という構図であった。リベラル派最左翼の雑誌『ネーション』はこのころ、「犯罪率上昇、人種暴動、インフレ、麻薬禍、過激派登場、ウーマン・リブ、世代の断絶、といった日々悪化する社会・政治・経済情勢を前にして、ニクソン政権は内心ほくそえんでいるのではないか」と分析していた。

 今回、三六年前の主役、保守化した「郊外族」のさらに外側に居住する彼らの次世代者、「エグザーバナイト(準郊外居住者)」を中心とする新版サイレント・マジョリティー票の狩り出し、囲い込みに成功したローブ氏の戦略では、このテコとして同性婚問題が使われた。二〇〇四年五月十七日、同 性婚を合法と認めたマサチューセッツ州最高裁の判決が最終的に確定した日、ボストン近郊のケンブリッジ市では五〇〇〇人を超す同性愛支持者が集まり、聖職者の前で結婚を誓う同性カップルたちを歓声を上げて祝福した。サンフランシスコでもゲイ支持派の市長のもとで、同じような結婚証明書が発行された。この同性カップルがキスするシーンを映すテレビをみて、民主党の選挙プロは、「これはケリー候補にとってボディー・ブローとなる」と受けとめたという。案の定、合衆国憲法を修正して同性婚を禁止するとのエバンゲリカル・クリスチャン・グループの主張に一〇〇%沿ったブッシュ大統領に対して、同性婚には反対しながらも、決定は州にゆだねるとの立場をとったケリー候補は、後れをとった。新版サイレント・マジョリティーの怒りは、同性婚を勝手に認める州や地方裁判所の「リベラル裁判官」にまで向けられていたからである。

 ちなみに、この新版サイレント・マジョリティーには、ヒスパニックも黒人も女性もかつてない比率で加わっていることも、出口調査で報告されている。

 選挙後、ゲイ・パワーに理解を示す元サンフランシスコ市長のファインスタイン民主党上院議員は、「マサチューセッツ州最高裁の判決が出て、ゲイ・コミュニティーが舞い上がってしまった。はしゃぎすぎた。そのスキをうまくつかれた」と自己批判している。

 そして、このしたたかなローブ戦略には、ニクソン時代にサーモンド議員との取引のおかげで副大統領として歴史に名を残すことになったアグニューが「組織された声高な少数派」と決めつけたのと同じような「敵役」が必要だった。『ニューヨーク・タイムズ』紙、『ワシントン・ポスト』紙といった「東部マスコミ」の常連のほかに今度は、CBSテレビのキャスターであるダン・ラザー、ウォール街のソロス、ローブ氏が「文化の下劣な部分」に入れていることは間違いないマイケル・ムーア、そして投票日直前にビデオで登場し、ケリー候補に「あれが痛手だった」と嘆かせたオサマ・ビンラーディンが加わった。彼らは、ブッシュ再選実現の功労者ということになる。

 こうしてブッシュ大統領は、大量破壊兵器の未発見のみならず、スペインの参戦離脱、アメリカの恥部を世界にさらしたアブグレイブ刑務所虐待事件、政権内暴露本の続出、イラク現地での治安回復の遅れ、米国兵死傷者の増加、アメリカ民間人の残忍な殺害、さらには、イギリス人、そして、日本人までその対象となってしまった誘拐や殺害──と、次から次と襲ったイラク戦争の「逆風」も、しのぐことができた。このアイロニーを忘れてはならない。

 独り勝ちの出口戦略

 焦点のイラク戦争との関係で、もう一つ「南部戦略」との接点を報告しておく。ブッシュ第二期政権の落とし穴となりかねないアキレス腱である。

 今度、ブッシュ再選を支持し、そのイラク政策を信任した新版サイレント・マジョリティーのエゴイズムが、将来のイラクからの「出口」戦略の行方も支配する可能性についてである。ここでもニクソンの「南部戦略」とのアナロジーが役に立

つ。

 ニクソンは、民主党政権から引き継いだベトナム戦争の「勝てない」現実に対して、サイレント・マジョリティーのエゴイズムとメンツに迎合する「名誉ある撤退」のシナリオを構築した。いわゆるベトナム人化計画である。「アメリカは北ベトナムからの侵略ははね返した。約束は十分守った。アメリカ兵の血は十分流れた。あとは自らを守れるようになった南ベトナム政府軍にバトンを渡せばいい。決して負けて帰るのではない」─といった論理でそれは組み立てられていた。

 北ベトナムへの爆撃強化、ラオス、カンボジアへの軍事進攻・爆撃といった実質的な戦火拡大が、「アメリカ兵の血を流

さないため」の条件づくりとして実行に移された。ベトナム戦争戦死者の半数近くを占める二万七六二三人の血がニクソン政権になってからのベトナム人化計画のもとで流されている事実が、このサイレント・マジョリティーのすさまじいまでのエゴイズムを実証している。今後、アメリカのイラクからの「出口」を見るうえで、忘れてはならない前例である。

 そして、ニクソンは、ベトナム人化計画による「名誉ある撤退」の舞台づくりのため、毛沢東との握手による米中和解という大わざをかけた。国内の反戦運動は封じ込められ、自らも再選を果たした。このシナリオに沿って一九七三年三月二十九日、当時のサイゴン、現ホーチミン市近郊のタンソンニャット空港で行われたアメリカ軍のさびしい撤退式を、私は取材している。その三日後、ハノイに抑留されていたアメリカ軍捕虜四〇〇人の釈放が完了。その約一年半後、ニクソンも辞任に追い込まれ、アメリカ議会が次々と対南ベトナム援助をカットするなかで、南ベトナム政府はあっという間に崩壊、七五年四月三十日、サイゴンが陥落する。アメリカによる�eアメリカ政権の放棄、北ベトナムによる吸収という冷酷なシナリオの完結であった。

 現在、ブッシュ政権が一五万人近いアメリカ占領軍の力で強行しようとしている二〇〇五年一月のイラク国民議会選挙。それを突破口とするイラク人のイラク人のためのイラク人による民主主義政治の樹立というシナリオ。つまり「イラク人化計画」が、あの「ベトナム人化計画」から学んでいることは周知の事実。チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官のコンビは、ニクソン・ホワイトハウスからの生き残りである。十分に学習している。

 しかし、あの時は、アメリカが投げ出した南ベトナムを受けとめ、吸収する北ベトナム、その背後にはソ連、中国がいた。しかし、その東西冷戦の枠組みはもうない。いまやアメリカ独り勝ちの時代である。たとえアメリカが投げ出しても、引き取る者はどこにもいない。ニクソン時代のベトナム人化計画とはここが違う。アメリカ独り勝ち時代のアメリカ一国主義のツケは、東西冷戦時代のそれとは異なり、すべてアメリカ一国に戻ってくる。

 したがって、「9・11」の大ショックのなかで、かつて「南部戦略」を受け入れたサイレント・マジョリティーと同じように、利己的に身の安全、つまりアメリカの「国土安全」を第一に、ブッシュ大統領とのテロとの戦いのテーゼと再選を認めた新版サイレント・マジョリティーにとって、ここからが正念場である。ベトナム人化計画のような、エゴイズムを発揮できる「出口」はないからである。逆に、このエゴイズムがいつまでアメリカ兵の戦死者と戦費のエスカレーションに耐えられるのか。ブッシュ完勝の足元は、この点で必ずしも固くない。

 フィリップス氏の警告

 その意味で、最後に「南部戦略」の理論的構築者であったケビン・P・フィリップス氏をめぐるアイロニーに満ち満ちたエピソードを紹介しておく。

 フィリップス氏は、予言したとおりに「多数派としての共和党」が誕生したいま、本来なら彼は「ブッシュのアメリカ」の英雄であるはずである。今度、ブッシュ大統領が獲得したレッド・ステートは、かつてフィリップス氏が命名した「サンベルト地帯」そのものである。

 皮肉なことに、そのフィリップス氏はいまブッシュ政権批判者の一人である。二〇〇四年九月には、「アメリカン・ダイナスティ(アメリカの王朝)」と題する新著を発表、親子二代にわたるブッシュ政権を、イギリスのクロムウェル共和政後や、フランスのナポレオン後の王制復活にたとえて、その特権政治をこきおろした。フィリップス氏はニクソン政権発足後、七〇年までミッチェル司法長官の特別補佐官をつとめた後、コラムニスト、選挙アナリストに転じた。ワシントンの評価は高く、私も八○年代末から九〇年代初めにかけて、何度も会って鋭い分析を聞いた。

 しかし、そのころから彼の関心は、共和党多数派時代における貧富の差の拡大に向けられ、一握りの富裕層のみが「小さな政府の政治」の恩恵に浴しており、このままではやがて頼みの綱の中産階級の支持を失うと、共和党員の立場から警鐘を鳴らしていた。一九九二年の選挙での父ブッシュ大統領に対するクリントンの勝利も、この分析の延長ではっきり予言していた。

 まさに、イラクからの「出口」戦略で、ブッシュ大統領がいま直面しているのは、この中産階級の支持、そのエゴイズムをいつまで、どのようにつなぎとめられるか、という課題である。戦死者と戦費の上昇を、双子の赤字がふくらむ経済のなかで、いつまで新版サイレント・マジョリティーが認めてくれるのか─という不気味な問いである。

 カール・ローブ氏の先輩としてのフィリップス氏のコメントを聞きたいところである。次回のアメリカ旅行では会わねばならない。

© Fumio Matsuo 2012