2003_02_第2のアメリカ(月刊文藝春秋・巻頭随筆)

『文芸春秋 2003/02』

第二のアメリカ

 

松尾文夫(ジャーナリスト)

 

 昨年秋、アメリカを三週間取材旅行したあと、すぐ中国の西安と敦煌を旅して来た。

 日中国交正常化三十周年記念企画、「西安・日本発見紀行」と名付けられ、平山郁夫画伯の現地での特別講演も日程に組まれたツアーに参加したもので、千四百年前の遣唐使や空海の足音がよみがえって来るような古都西安。シルクロードのロマンを肌で感じた敦煌。よくプランが練られたツアーに感心して帰って来た。

 しかし、この旅でいつも私の頭の中から離れなかったことがある。それは、長旅をして来たばかりのアメリカと、中国との奇妙な連続性だった。

 西安空港のロビーに落着いてまず飛び込んできたのが、「熱情服務、ウォーム・サービス」と書かれた看板。こうしたスローガンや注意書きには、必ず英語が同じ大きさの活字で併記されている。日本人が観光客の八〇%を超えるというのに、日本語はどこにもない。

 迎えのバスに乗ると、ガイド嬢が一生懸命の日本語で説明して曰く。

「西安は唐の時代、世界で一番強い国の首都でした。いまのニューヨークのようにいろいろな人が世界中から集まって来ました。日本からは阿倍仲麻呂たちが来ました」

 ガイド嬢は日本には一度だけ旅行したことがあるが、アメリカにはまだ行っていないという。版図が一番西にのびた唐の時代の、首都の偉大さを、素直に誇る話しぶりには厭味はなかった。ただ例えとして挙げた都市が東京ではなくニューヨーク、それが何の抵抗もなく出てくるところが気になった。アメリカの首都はワシントンだよ、と言うと、ああそうでしたね、と屈託がない。

 西安市内に入ると、日本に比べてまだまだ暗い街灯の列のなかで、ひときわライトアップされていたのが「西部大開発推

進」の大きな立て看板。なるほど中国にもアメリカと同じように西部という言い方があるのだと気付く。

 ガイド嬢は、「中国東部は過去十年大変な発展を遂げました。これに比べて三峡地区から西半分の中国は、まだまだ遅れていることが多いのです。だからこの看板が必要なのです。中央の政治指導者にもわれわれ西部の出身を送り込んで、頑張らなければなりません」と、声を張り上げて解説してくれた。

 敦煌では、立派な新空港ターミナルが完成したばかり。名物の石窟寺院、莫高窟訪問へとゴビの砂漠の一端をバスに揺られていると、一カ月前レンタカーで走って来たばかりの南カリフォルニアの半砂漠や、十八年前家族と走ったフェニックスからグランドキャニオンを経て、ラスベガスへ続く砂漠の道を思い出し、中国の西部の存在を実感した。

 そして、十九世紀のアメリカが砂漠をものともせず、西へ西へと「明白な天命」を信じて発展したように、二十一世紀の中国はこの「大西部」を第二のサンベルトにしてしまうのだろうか。中国が、もし共産党独裁のもとでの市場経済推進という史上例のない実験に成功したら、もし少数民族問題や観光客にも一目でわかる貧富の差、といった現在の困難を克服したら、第二のアメリカになってしまうのだろうか─。鳴沙山の美しい砂の稜線を見ながら考え込んだ。

 敦煌のガイドが連れて歩いてくれた暗い夜の街で、そこだけ明々と光り輝いていたのがアメリカ流のヘアサロン。茶髪の男女が忙しそうに働いている。本屋では「WTOのすべて」といった本が正面に置かれていた。

 戻った西安では、一九三六年の西安事件現場を、特別のガイドを頼んで見てきた。抗日国共合作のきっかけとなったこの西安事件で国際的スクープを飛ばしたのは、私が勤務していた共同通信の前身・同盟通信の大先輩で、アメリカ特派員時代や晩年の勉強会で直接指導を受けた故松本重治さんである。

 現場は、当時の弾痕を含めて、蒋介石が最後に捕まった岩山の切れ目まで鎖付きで保存され、中国人観光客でにぎわっていた。ガイドは、この事件の立役者、張学良を「中華民族的千古功臣」と讃えている資料を、黙って私に差し出した。

 そこで思い出したのが、南カリフォルニアのニクソン図書館とワシントンの国立公文書館で調べて来たばかりの、ニクソン訪中時とその前後の米中首脳の会談記録である。解禁された速記録によると、日本のシベリア経済進出、台湾介入などを懸念する周恩来首相に対し、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は口を揃えて、「日本問題についてはアメリカと中国の『伝統的な関係』で対処すれば心配ない」との発言を繰り返していた。

 この「伝統的な関係」には、延安時代にまでさかのぼる「毛沢東の中国」とアメリカとの接触が含まれていることは、歴史の一部である。日本にはない「関係」である。

 もしかしたら西安事件のウラにはアメリカの影があったのではないか。気がついてみたら、アメリカと中国連続の度は、重い仮説と宿題を抱え込んでくることで終わった。

© Fumio Matsuo 2012