第21回 「対米、対中、対ロ。どこを向いても不安定」 歴史和解の不在が日本外交の躓きの石(中央公論2011年2月号P192-201掲載)

敗戦にケジメをつけなければ

日本の外交に未来はない

 

 対中国、対朝鮮半島、対ロシア、そして対アメリカ。どちらを向いても不安定な関係の中で、二〇一一年を迎えた日本。どうすればいいのだろう。どう抜け出せばよいのだろう。

 昭和一ケタ生まれ、福井市でB29の焼夷弾爆撃を生き延びた戦争世代の最後に属する私は、やはりもう一度現在の日本の出発点である、あの太平洋戦争での敗北にまで戻り、遣り残した数々のケジメをつけるところから始めねばならないと思う。

 逆に言えば、今、日本という国が周辺諸国との間に抱える外交課題は、あの敗戦にきちんとしたケジメをつけずに、経済大国化の成功物語を謳歌してきたツケを支払わされている─と捉えるところから始めることだと思う。今もっとも必要なのは、冷静に足元を見つめ直し、一つ一つ関係改善への突破口を積み上げていくことである。

 現在の外交的な閉塞状況について、民主党政権の責任を問うことはたやすい。特に鳩山前首相の沖縄基地問題での食言に代表されるその外交上の迷走の責任は限りなく重い。 

 しかし同時に、戦後から一昨年まで事実上政権を握り続けていた自由民主党を始めとする現在の野党も含めて、こうした事態に追い込んだ責任を免れるものではない。さらに言えば、自らを含めたメディア、そして最後には、こうした政治を選び、その外交を許した国民一人ひとりがその責任をかみしめることが求められている。菅内閣を批判し、嘆くだけでは、出口は見えてこない。ここまでくると、過去を振り返り、一歩一歩再構築の努力を積み重ねることしかないのではないか。

 私は、二〇〇五年九月号の本誌で、アメリカ大統領の広島献花を呼びかける論文を発表して以来、日米のメディアに対し、ドイツがすでに達成しているように、日本もあの戦争の責任にケジメをつけることを提案し続けている。具体的には、日米、そして東アジアの近隣諸国との間で戦争犠牲者を弔う鎮魂の儀式を行うことによって、「歴史和解」にケジメをつけるべきだ─という主張である。昨年十一月には日本記者クラブで発表する機会も得た。以下その延長で、論議のたたき台を提供してみたい。

 

冷戦時代の慢心と外交無策のツケ

 

 折しも二〇一一年は真珠湾攻撃による日米開戦七〇周年。そして、日本が一九五一年九月八日、サンフランシスコでアメリカを中心とする四十八ヵ国との講和条約を調印、アメリカ軍基地を受け入れる日米安全保障条約を結んでから六〇年目の節目の年である。積み残してきたケジメの問題を考えるよいチャンスだと思う。

 この「サンフランシスコ講和体制」で、日本は、一年三ヵ月前に始まっていた朝鮮戦争に凝縮された東西冷戦の枠組みの中で、はっきり西側、つまりアメリカ側で生きることを選んだ。今では死語となってしまった「全面講和か単独講和か」という一九四〇年代後半の日本の論壇を二分した論議に従えば、吉田茂首相による「単独講和」の選択であった。サンフランシスコ講和会議に、グロムイコまで送り込んだ旧ソ連の反対を押し切り、新中国には声もかけなかったダレス反共外交のお膳立ての上での独立獲得であった。

 この吉田路線は成功する。一九五三年に独立後初の国賓として日本を訪問した当時のニクソン副大統領からの再軍備要求を拒んだ日本は、アメリカ軍に基地を提供、その核の傘に入るだけで、ひたすら経済立国に専念し、朝鮮戦争特需、それに続くベトナム戦争特需という追い風を受け、経済大国化への道を走り続ける。早くも一九六八年にはGDPで当時の旧西ドイツを抜き、世界第二位の経済大国に伸し上がる。

 しかし、この成功物語は、東西冷戦の狭間の中でのみ可能なものであった。そのことを多くの日本人は忘れ、やがて訪れたバブル景気の中で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた経済力と生活の向上に慢心する。アメリカが大恐慌を克服した記念碑ともいえるニューヨークのロックフェラー・センターを三菱地所が二二〇〇億円で買収したのは、皮肉にも東西冷戦がベルリンの壁とともに姿を消す一九八九年十月のことである。

 バブルがはじけた六年後の一九九五年、三菱地所は債権者に同センターを譲渡、事実上撤収する。日本経済の「失われた二〇年」の始まりであり、第二位の経済大国の地位喪失につながる前奏曲でもあった。グローバリゼーションが進み途上国が発展を続ける中で、こうした冷戦時代の慢心と外交的無策、つまり「歴史和解」に真摯に取り組むことを怠ってきたツケを支払っているのが、現在の日本と捉えるべきである。

 現在の北の北方四島と南の尖閣諸島という二つの領土問題の相手国、旧ソ連・ロシアと中国は、「サンフランシスコ講和体制」の外側におかれていた。この単純な事実を確認するところから考えねばならない。この二つの国の関係からそのケジメのあり方を見てみよう。

 

ヤルタ秘密協定に逆戻り

 

 ロシアの場合、一九五六年の日ソ共同宣言で、国交を回復、さらに平和条約締結後、歯舞、色丹二島の日本引き渡しも約束された。しかし以来五五年、周知のように、いまだ約束は実現されていない。時間だけが確実に流れ、二〇一〇年十一月のメドベージェフ・ロシア大統領の国後島訪問で、一気に対日参戦を代償に南樺太、千島列島そして、今もロシア側が四島実効支配の正当性の根拠としている一九四五年二月の米英ソ首脳によるヤルタ秘密協定の段階まで逆戻りしてしまった。「サンフランシスコ講和体制」がヤルタ秘密協定を反故にした事実に、今のロシアがスターリン宜しく復讐したともいえる。

 一九五六年の段階で、歯舞、色丹返還受け入れに傾く日本側に対し、アメリカのダレス国務長官が、もし、国後、択捉をあきらめるなら、沖縄に対する日本の潜在主権は保証できないと恫喝する。こうした沖縄問題までからむアイロニーに満ち満ちた冷戦の傷跡は、原貴美恵氏の『サンフランシスコ平和条約の盲点─アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」─』(二〇〇五年、溪水社)の貴重な労作で詳しく分析されている。気がついてみたらすべてがサンフランシスコ講和での選択に先祖返りしたような日本の現在の状況下で、一読をお勧めする。

 こうしたロシアとの関係は、ヤルタ秘密協定というアメリカの意を受け、その同意の上で旧ソ連が日ソ中立条約を破ってまで参戦したあの戦争に日本は敗れたのだ─という厳しい現実を、改めてかみしめることが一つのケジメであるかもしれない。

 同時にあの旧ソ連がロシアへと生まれ変わり、経済的に疲弊し、ロシア側島民からも日本帰属の声が出ていた一九九〇年代に、もしあの三菱地所の二二〇〇億円に代表されるような資金が、北方領土をめぐる旧ソ連・ロシアとの駆け引きで使われていたらと考えてみることは意味があるのではないだろうか。ロシアが資源大国として台頭を果たし、四島のインフラ強化に取り組み始めた今となっては繰り言に過ぎないかもしれない。しかし、私は、経済大国時代のおカネの使い方、そのばら撒き方について総括し、そこから教訓を得る必要を北方領土問題は教えてくれているのではないかと思う。これもケジメの一つではないだろうか。

 ロシアとの間では、樺太での天然ガス開発などでの経済協力が今も継続されている。これが今や「平和条約交渉のアプローチを変える。まず経済問題をやる」(メドベージェフ大統領)と言い切るロシアを相手とするこれからの平和条約締結交渉で、「領土問題」を復活させる一つの細い道である以上、少なくともこうした過去の教訓から学んでおく必要があると考える。したたかなロシアと付き合うには、したたかなおカネの使い方があるはずだ。


南京献花は不可欠

 

 中国との関係で言えば、急速な経済成長の中で、格差が広がる国内矛盾の一番のはけ口が、いつまでたっても反日デモであるという状況を変えるために、日本側も努力しなければならない。

 私は、十月半ばオーストリアのザルツブルク・グローバル・セミナーの主催する中国ツアーに参加。北京、内蒙古の二都市、大連、上海を訪れた。二年前の訪問に比べて都市の高層ビル化とともに、人々の生活水準が間違いなく上昇していることが確認できた。同時に、パンク寸前といってもいい交通渋滞、「持つもの」と「持たざるもの」との格差が教育、海外留学のチャンスから住宅、社会生活のすべての面で広がりつつあり、その不満が容易に、反日スローガンのもとで反政府デモに転じて、爆発する可能性も肌で感じた。

 中国には、いまだに相続法も民事法もないのである。共産主義の一党独裁体制の下での資本主義的な経済大国化に成功し、国民の消費生活での欲望に火をつけてしまった矛盾は、目に見えない形で深まっている。

 私の滞在中にも二度、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞関連のニュースがNHKの海外放送の画面に流れた瞬間、ホテルのテレビがブラックアウトされる経験をした。しかし、切り替えたBBC放送では、アフリカからの特派員レポートの画面に、テロップで「劉夫人は自宅で軟禁」とのニュースが英語で流れていた。現在の技術ではテロップ削除は不可能なのだという。

 旅のプログラムで交流した大学生たちは、誰もが劉氏受賞のことを知っていた。反日デモの取材は、ネット上でのデモ予告と、これをキャッチして削除する当局との「イタチごっこをとらえるところから始まる」と、現地の記者から聞いた。

 ビルのワン・フロアー全体を占める巨大なインターネット・カフェで、ほとんどが失業者だという若い男女が真っ昼間から不気味にPCの列と向き合う姿に接して、こうしたネット上の言論統制がいつまで有効に機能するのだろうか、と思った。

 私自身は反日デモ自体にはめぐり合わなかったものの、たまたま出発直前に、尖閣諸島沖での中国漁船船長の逮捕事件が起こったこともあり、緊張した滞在を続けていた。そのため、帰国後、日本の新聞で、地方都市での「反日デモ」が大勢の警官隊によって規制され、学生の参加を防ぐために大学の授業も延長されるなど、徹底した取り締まりが行われたとの報道に接しても、妙に納得し、違和感はなかった。横浜のAPECで胡錦濤国家主席が菅首相との会談で容易に笑顔など見せられないのは、当然のように思えた。

 同時に、二週間中国の空気を吸っていると、言語、食事まで現在の日本の生活の根源が、すべてやはり中国から始まっているという否定しようもない事実を改めてかみしめることになった。中国側から見れば、その中国文化圏の巨大な版図の東の隅にある日本が、たまたま十九世紀後半、いち早く欧米の技術を手にして近代化に成功、欧米に並ぶ軍事大国となり、清朝最後の皇帝を担いで旧満州国を作り、万里の長城も越えて攻め込んできた事実に対する怨念は、たとえ世代が替わっても消え去るものではないことが実感できた。

 こうした中国人の日本に対する深層の違和感は、深く広く中国人の心の中に沈殿していることを忘れてはならない。もし自分が中国人だったらと考えてみるべきだと思う。

 したがって、やはり日本にとって、あの侵略で中国人に犠牲者を出したことへの謝罪を最も明確な形で明らかにすることが、尖閣問題で生まれた緊張関係を解きほぐす一番の早道であると思う。もちろん一回の献花で中国人の怨念が消えるものではない。むしろ永遠に残ると思った方がいい。しかし今、日本側が一歩踏み出すことが必要だと思う。

 具体的には、やがては実現しなければならない日本の首相の中国公式訪問の際、中国侵略の犠牲者のシンボルとなっている南京を訪れ、市内で公式に認知されている七つの虐殺現場のいずれかに花を手向け、弔うことから始めることを提案する。

 南京での日本軍による虐殺については、その有無から始まる様々な意見が、日中両国内であることを承知している。南京の大虐殺記念館では、今も三〇万人虐殺の展示が続く。しかし、私は、共同通信社の大先輩であり恩師でもあった故松本重治国際文化会館理事長が、同盟通信社上海支局長時代、日本軍の南京攻略の取材に派遣した三人の記者から直接報告を受けた話として、「正確な数はわからない」としながらも、「南京内外での虐殺事件はなかったということはない。あったことは事実です。犠牲者は大半は捕虜で、非戦闘員の中国市民男女も相当あったと思われます」(『昭和史への一証言』松本重治著、聞き手國弘正雄、二〇〇一年、たちばな出版)と、生前述べられていることを受け入れたい。

 数の問題ではなく、虐殺が行われたという事実だけで、首相献花の理由として十分だと思う。周知のように、二〇〇一年十月には、当時の小泉純一郎首相が盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館を訪問し、献花し論語にある「忠恕」(まごころや思いやりの意)の二字を揮毫している。しかし、その後の靖国参拝もあってか、その揮毫は展示から外されている。

 したがって、次期首相訪中で、日本と中国との間のとげを抜く新しい和解の一歩として、南京献花を実現しなければならない。南京には、中国民主化の父、孫文が眠る広大な中山陵もある。折から今年は孫文が指導者だった辛亥革命から一〇〇周年にあたる。中山陵弔問とセットでの日程もありうるだろう。このほか日本総領事館の調べで、一九三八年から一九四三年まで、のべ二一八回にわたる日本軍の爆撃で一万一八八九人の死者が出たとされている重慶でも、いつの日か首相献花が行われるべきだろう。

 

接近する中ロ

韓国、北朝鮮との関係にも課題

 

 このとげを抜くことがいかに必要なことか─。戦艦ミズーリ号上での日本降伏文書調印式から六五周年を記念して、昨年九月二十八日、ロシアと中国の首脳が北京で発表した「第二次世界大戦終結六五周年に関する共同声明」を読めば分かる。「北京週報」日本語版によると、ロシア、中国首脳はこの声明の中で、中ロ人民がいかに日本相手に「肩を並べて」戦ったかを強調し、中国は「ソ連軍が中国東北解放戦役において果たした役割を高く評価する」と述べた後、中ロ両国は第二次世界大戦の歴史の「改竄」を許さないと、うたっている。

 かつての激しい中ソ対立はどこへやら、暗にヤルタ協定に基づく北方四島問題でのロシアの立場を示唆する内容となっている。まさに六〇年前、「サンフランシスコ講和体制」から締め出された二つの国の復讐の声明といってもいい。

 復讐といえば、朝鮮半島の二つの国、韓国、北朝鮮にも、サンフランシスコ講和会議に声がかからなかったことが今でも尾を引いている。朝鮮戦争の交戦国同士であったということのほかに、韓国を招請するとのアメリカの当初案に日本が反対したためである。当然のことながら、旧宗主国日本としては国際法上の交戦国ではないとの理由があった。

 しかし、肝心なことは、前述の原貴美恵氏の著書での指摘によると、アメリカそのものが、日本の植民地から解放され独立を果たしたばかりの韓国との連帯よりも、東西冷戦への対応を優先させ、日本を、特に沖縄を東アジアにおけるコーナーストーンと位置づけ、重視し、その言い分を取り入れた、という思いが韓国には残っているからである。

 韓国と日本との間にいまだに残るとげ、竹島(韓国名・独島)帰属問題もその延長線上にある。サンフランシスコ講和条約の草案づくりの記録でも、一九四七年三月十九日付の第一回アメリカ案の段階では、竹島は韓国に帰属と明記され、これは一九四九年十一月二日の第五案まで続く。それが一九四九年十二月二十九日付のアメリカ案で、「竹島については日本に古くから帰属するとの日本の資料に正当性があり、安全保障上も気象観測所およびレーダー基地として活用が考えられる」との注釈付きで韓国領から外され、日本領として明記され、そのまま最終案となり、調印される。

 韓国が実効支配する竹島の歴史には、日韓併合前の段階から島根県の一部だったとの日本側の主張のほかに、こうした東西冷戦時代のアメリカの思惑が反映された経緯がある。韓国としては、実効支配しているという事実や、一九六五年の日韓条約締結の際、一応の折り合いをつけたという経過があるにもかかわらず、近年、歴史問題として再燃している背景には、どうしても感情的に許せない歴史の象徴と受け止められていることがある。

 アメリカ自身、講和会議の段階からこの日韓の紛争を予測し、ダレスは国際裁定による解決さえ口にしている。五二年一月、対日講和条約発効の直前、李承晩政権が竹島をその内側に含む「李承晩ライン」を一方的に設置したときも中立的な立場をとり、今日にいたっている。このため「国際裁判」での解決を主張する日本の立場も立ち往生したままである。

 昨年、「菅談話」も出て、日韓併合一〇〇年の節目を友好的な関係の中で迎えることができた日本と韓国の関係は、北朝鮮による砲撃事件のショックもあり、アメリカを加えた三国の団結に結びつき、韓国軍がオブザーバーとして参加した日米合同軍事演習など、今までになく具体的な連帯を誇示している。しかし、北朝鮮での拉致被害者救出に自衛隊機の動員もありうるとの菅首相の発言に、ソウル当局が即座にノーの反応を示したように、中国同様に、植民地支配時代の怨念は決して消えていない。

 まだまだ日本が過去にケジメをつけたと受け取られていない部分があることを忘れてはならない。六〇年前、韓国、そして日本をがんじがらめに縛った冷戦時代はとうの昔に去っているにもかかわらず、この二つの国の間には、そのもう一つ前の「日本植民地支配」のツケがまだまだ重くのしかかっている。この事実を肝に銘じておかねばならない。

 北朝鮮との関係では、こうした六〇年前の韓国に対するダレス外交、さらにはマッカーサーの朝鮮半島占領まで自己批判して、砲撃事件後の緊張の中でも、北朝鮮との和解を志す勢力がアメリカ国内で消えていない事実を指摘しておきたい。かつて対朝鮮外交の中心に位置した元政府高官は、今も「アメリカには朝鮮分断の悲劇を生んだ責任がある。なぜならマッカーサーの日本占領に際し、朝鮮半島を解放し、独立させるという発想もプランもワシントンにはなかった。このアメリカ側の空白をついてソ連の影響力が北に入ってしまった」と贖罪意識をあらわにしながら語る。今のところこうした贖罪意識は、オバマ・ホワイトハウスの朝鮮半島政策には反映されていない。

 しかし、かつてソ連からの自立を意識してニクソンと握手した毛沢東と同じように、金正日総書記は、今、脅しの政策の延長にアメリカとの和解、平和条約締結を据える。昨年暮れのリチャードソン・ニューメキシコ州知事の訪朝のように、ニューヨークの北朝鮮国連代表部経由を含めてワシントンと平壌間のパイプの規模は七〇年代の米中のそれを遥かに超える。拉致問題をかかえながら、いまだに北朝鮮との直接の接触ができていないといわれている日本との格差は、あまりに明白である。

 

菅首相は真珠湾献花から

訪米の旅を

 

 最後にアメリカとの根っこからの同盟関係の修復、そしてその一つとしての普天間基地移設問題の決着にどう取り組むかを考えたい。

 遅くとも五月の連休前までに実現すると見られている菅首相のアメリカ公式訪問をまずハワイ真珠湾のアリゾナ記念館訪問、献花から始めることを提案する。この七〇年前の日本海軍機の真珠湾奇襲攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの残骸の上に立つ記念館に、日本の首相はまだ誰も訪れていない。アリゾナ艦内には今もアメリカ兵一一七七人の遺骨が眠る。

 ルース駐日アメリカ大使が昨年八月の原爆投下記念日の式典にアメリカ大使としては初めて参列したことを受けて、こうした菅首相のイニシアチブは間違いなく、オバマ大統領によるアメリカ大統領としてはこれまた初めての広島献花の実現に道を開く。中間選挙での手痛い敗北で、国内政治で守勢に立つオバマ大統領にとっての援軍となる。

 戦後六六年も経ちながら、依然として、日本とアメリカは戦前と同じく「知っているようで、知らない」関係を続けている。占領軍を進駐軍、敗戦を終戦とごまかし、そして東京裁判の結果を受け入れただけで日本人自らの手では一切あの戦争の責任者を裁かなかったマッカーサー占領時代の後遺症は今も続く。高校の歴史教科書では「アメリカという国」をきちんと記述していない。アメリカ史の専門家でない学者が執筆する場合が多いからだという。アメリカへの日本の留学生も減っている。

 この日米関係の構造的な危機を克服するためにも、広島、真珠湾での日米首脳による戦争犠牲者を弔う鎮魂の献花という、ドイツが旧連合国との間でとっくの昔に済ませているケジメの儀式を行うことが必要だ。日本より長いアメリカとの関係の歴史を持つ中国が台頭する中で、このことは至上命令となってきている。

 ドイツとの対比はそれを列挙した拙著『オバマ大統領がヒロシマに献花する日 相互献花外交が歴史和解の道をひらく』(二〇〇九年、小学館101新書)を参考にしていただきたい。ここではドイツがフランスとの間で歴史共通教科書の発行までこぎ着けていることだけを報告しておく。

 特に二〇一〇年の横浜のAPEC参加時のオバマ大統領の広島訪問が見送られた理由の一つに、アメリカ世論の根強い反発があることを見逃してはならない。広島では一切発言を控えたルース大使にまで、事実上の謝罪だという批判が即座に出る。日本ではあまり伝えられていないものの、西海岸を中心とする中国系、韓国系市民の間では、オバマ広島訪問は「あの戦争の加害者である日本人を被害者のように扱うことになる」との反発が根強い。かつての従軍慰安婦問題のように一種の政治的な圧力となっている。

 オバマ政権が政治的に無視できない彼らの主張も、またサンフランシスコ講和条約にまでさかのぼってその根を探らなければならない。東西冷戦を意識し、日本に寛大だったアメリカ国内から、同条約の第一四条b項によって、日本に対し戦争捕虜による損害賠償権を放棄したことをやり玉にあげる声が上がっているということである。彼らは、条約改正は無理としても、第一四条b項を「再解釈する」努力に、日本の協力を得て取り組むべきだと主張している。

 予定されている今春の首相訪米の旅の出発点として、私がアリゾナ記念館献花を強く主張するのは、今年十一月に次回のAPEC首脳会議がハワイで開かれるからである。各国首脳の渦の中で、そのワン・オブ・ゼムとしての日本の首相のアリゾナ記念館献花ではならないと思うからである。江沢民国家主席が一九九七年十月からのアメリカ公式訪問の出発地をハワイに選び、アリゾナ記念館を訪問、献花して「一緒に日本と戦った中国とアメリカ人民」とのメッセージをアメリカ世論に大きくアピールしたことを思い出す。胡錦濤、メドベージェフ両首脳が一緒にアリゾナ献花といった悪夢のような場面を想定しておいてもおかしくない。つまり首脳会議のついでのアリゾナ記念館訪問、献花ではなく、あくまで日本の首相単独のオリジナルな機会での訪問、献花でなければならない。その意味で時期は今春の訪問時しかないのではないか。

 

普天間解決に向けた

四つの提言

 

 最後に、日本国内のケジメの問題である沖縄問題に触れる。

 私は一九五六年、共同通信社入社直後の大阪社会部で、プライス勧告反対集会を取材したのに始まり、一九六〇年代後半はワシントンで施政権返還交渉を追い、一九七二年五月末の返還直後の那覇や普天間基地を取材後、那覇空港から新しい任地のバンコクに飛び立った経験を持つ。昨年五月と九月には沖縄訪問の機会を得て、地元の友人たちの協力を得て、ひめゆり部隊の壕から海軍壕までの南部戦跡の各地、そして普天間基地を見下ろす丘にのぼり、辺野古の移転候補地の浜辺に立った。嘉手納基地の騒音地区「砂辺」にも行き、夜の名護市内、さらには伊江島、本部、海洋博跡地の水族館、植物園、今帰仁城跡、と中部、北部各地も見てきた。

 二〇一〇年九月に訪問した時は、ちょうど尖閣沖で逮捕された中国船長が石垣島に連行された事件が起こった直後だった。琉球新報社の「琉球フォーラム」で講演をした。国立劇場おきなわでは大城立裕氏の新作組踊の公演もみた。そのうえで、私は米軍普天間基地移設問題について、日米同盟の「深化」というフレームワークのもとで、以下の四点を考える。

1)辺野古への移転は知事選挙を経て地元の意向が固まった以上、強行は不可能であり、当面「棚上げ」し、アメリカのゲーツ国防長官が昨年八月十二日のサンフランシスコでの演説で、海兵隊副司令官一人をリストラした実例まであげて明らかにした二十一世紀の新しい海兵隊の編成という「可変」部分が具体化するのを見守る。その「可変」部分を日米同盟の「深化」と位置づける。

2)その間、普天間基地は短期的には騒音防止、事故防止という「負担軽減策」をアメリカ三軍間のセクショナリズムを乗り越えた協力を得て、徹底して行う。必要なら嘉手納基地の騒音地域で実行されているような全額国家補助、そして補償付きの騒音被害家屋の他地区への移転なども考える。長期的には、普天間基地の各機能別に国内外の他基地への分散・縮小を考える。

3)同時に、嘉手納飛行場以北の基地は、周辺地域での「負担軽減」を行いながらも、日本全体の安全保障維持のための多面的な価値をもった「必要悪」として沖縄県民に受け入れてもらう。

4)沖縄が一八七九年の琉球処分以来、その「皇民化」路線で被った過去に対する本土の「痛切な反省」を可能最大限な振興基金の提供と合わせて改めて公にするとともに、かつて琉球王国時代、日本、中国、朝鮮半島、さらにアメリカとも立派に共生していた過去に先祖返りする発想で、「和解の島」沖縄のイメージを打ち出す。その手始めに次回、または近い将来の日本、韓国、中国の東アジア三ヵ国首脳会談を沖縄で開催する。

 戦後六六年、沖縄の本土復帰から三九年、ためにためてきた沖縄基地への過重な依存に対するツケはどこまでも重い。戦後の日本全体の歩み、つまり経済大国化の成功物語の足元で、沖縄に対してケジメを怠ってきたツケの大きさにたじろぐ。しかし投げ出すわけにはいかない。

 

まつおふみお 一九三三年東京都生まれ。学習院大学卒業。共同通信社ワシントン特派員、バンコク支局長、ワシントン支局長などを歴任。二〇〇二年ジャーナリスト活動再開。著書に『銃を持つ民主主義─「アメリカという国」のなりたち』など。

© Fumio Matsuo 2012